4月6日(水)人生を変えた出会い〜須賀先生〜
4月6日(水) 今日は。須賀先生との出会いについて書きます。
人生を大きく変えた出会いの一つは、24歳の時に出会った須賀先生との出会いです。
きっと須賀先生に出会って人生が大きく変わった方は、ものすごくたくさんいると思いますが、
私もその一人です。
私が、24歳の時、高知市制100周年記念市民ミュージカルRYOMAでの事です。
私は団員、先生は振り付けの先生としての出会いです。
須賀先生は、私と10歳違いですので、当時34歳。場所は、城西中学校の体育館です。
ファ〜と広がるパーマのロングヘアに黒いレオタードから筋肉のラインが綺麗に見えて、
きゅっとしまった腰からスラッとのびた真っ直ぐな足。スタイルも抜群ですが、
放つ輝きというか存在のオーラがすごかった記憶があります。
須賀先生のとこだけ、ひだまりがあるみたいな感じ。
階段からこけた?のか理由ははっきり忘れましたが、手にギブスをつけ、三角巾で吊るしていました。
しかし、怪我は全く気にならず、あ、これかすり傷よねと言わんばかりの満面の笑み。
本当にパワフルな方だなあ。そこにいるみんなを虜にする魅力あふれる方でした。
いつ会ってもニコニコしてて、そばにいるだけで太陽にあたたっているような感じ、
しかし時折みせる激しさは情熱の現れ?とにかく熱い。
でもあの頃、須賀先生だけでなく、団員もスタッフも、あの時代はみんな熱いのが普通でした。
その中でも際立っていたわけだから、相当の存在感だったことは、須賀先生を知らない方も
少しは想像できるでしょうか。
ミュージカルのためと、スガにもレッスンい通うようになりました。
森本かおり先生、刈谷公治くん(リトルに出演してくれたり、いつもリトルを助けてくれます)
も市民ミュージカルで出会いました。
ミュージカルRYOMA終演後、「スガに来んかね」と誘われました。
芸事を仕事にすることは、田村家ではあり得ないことと教育されていましたが、
そのストッパーになっていた父も他界してしまい、自分の人生をどう生きるか
模索していた当時の私は、これは、タイミングだ、運命だ(運命は人が運んでくる私の命という言葉をちょうど見て)
人生は一度きりだから一度は自分の思い通りやってみよう、いかんかったらまた修正したらえい。
小さい頃からのこの気持ちを持ちながら他の人生を生きてもきっと後悔する。
いろんな理屈や、自分の都合のいい言葉が溢れてきました。
やめといた方がいいのじゃない?不安定な生活になる。
母だけが、そう心配しました。でも母は私を止められないとわかっていたので何も今言えなかった。
母は晩年30年間「なんちゃ〜わからんなった」と言い続けましたが、このあたりが母の「わからんなった」
の始まりだったような気がします。
そうです。母は、きっと自分の気持ちを抑えて、黙って許してくれました。
そして、エアロビクス、ジャズダンスのインストラクターをはじめ、安芸、吾川、佐川、などなど
市内より地域を担当し毎週、西へ東へと車を走らせていました。
そしてよさこいの振り付け、指導、須賀連を作り、よさこい派遣事業の窓口を担当し、日本中、
世界にまでよさこいを踊りに行きました。たくさんの出会いがありました。
よさこいを踊って世界を知る。こんなことができるとは、最初全く想像だにしなかった。
先生と一緒にマウイ島に心のワークショップに行ったことも今の私とってに大きな礎です。
たった5年間ぐらいしか在関していませんでしたが、
それこそ30年分、いやもっとたくさんの経験をさせていただきました。本当に濃密な5年です。
それらのことは、もうここに書ききれません。
また別の機会に少しずつ書きますね。
このようにきっと須賀先生に会っていなかったら、今の私はありません。
何より大きいのは、「人」としての出会いです。
須賀先生は、
「覚悟を決めなさい。大切なのは覚悟よ」
「覚悟すれば道は開ける」
「愛」を唱えました。
先生の唱える「愛」はどんどん進化し地球を包んでしまうほどの「愛」へと進化していきました。
それを伝え、現実に下ろす手段は「踊り」です。
須賀先生が40歳の頃、私は仕事で馬路村簗瀬にジャズダンスを教えにいきました、
そして、先生と泊まった「満木荘」先生の隣で眠りました。
朝起きたら、須賀先生が「夕べ白いひげのおじいさんが現れて、世の中の無気力、無感動、無責任を正せというて
消えた」と言いました。私は、また変なこと言いゆういくらいにか受け取ってなかったのですが、
この夜から、須賀先生の人生は、びっくりするような展開となっていくのです。
壮大な映画のような須賀先生の人生をみんなで、何かに残したいと今も思うばかりです。
このことも、なた別の機会に。
「世の中の無気力、無感動 無責任を正せ」よさこい祭の発展に尽力し、
きっと須賀先生がいなかったら、今のよさこいの姿はないと思います。
1代で、よさこい鳴子踊りに心の軸をしっかり立てた功績はすごいことだと思います。
(いつかまた書かせてください。本当に書くことがいっぱいだ。(笑)
そんな須賀先生が、リトルにも「愛」を注いでくれました。
私が32歳の秋、須賀先生から電話がかかってきました。
「千賀はもう価値観が変わったから、スガを出なさい。私はリトルを出るからリトルをやりなさい」
当時の私は、大好きな須賀先生が、社会からのバッシングももろともせず進んでいく狭間で、
自分を見失い始めていたので、先生の言うことも理解できましたが、
須賀先生のところを去りたくない気持ちもあり、素直には受け取れませんでした。
しかし、今は、このことが須賀先生の「愛」だと実感しています。
父、母、須賀先生、恩師から頂いた「愛」をリトルに来てくれたみなさんに一生懸命返していけたと思います。
「人生を大きく変える出会い」みなさんにもきっとあると思います。
人と出会うことは心の財産ですね。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
合掌✴️千賀