私のソーラン祭り ① 誕生
私のソーラン祭
①誕生
その日、須賀先生は、疲れた体になんともいえない充実感に包まれた表情でスタジオに帰ってきた。
「千賀、もう私は、満足やき。
これでよさこいやめてもえいばぁや。
みんなほんとうに一生懸命練習してくれた。もうなんも言うことない。
私は、幸せや。」
先生があんなこと言うなんて。今年のセントラル、どんなにしあがったがやろう。
セントラルとは違う別のチームを担当していた私は、ほとんどセントラルの稽古には行けなかったので、想像を膨らますばかりだった。
先生の言葉とその時の嬉しそうで、ほっとしたようななんともいえない表情は、30年以上たった今もはっきり思いだせる。
その頃、わたしは須賀ジャズダンススタジオに入社して3年目を迎えていた頃だったと思う。
私は、初めて振付させてもらったチームの練習を終えて、力がぬけてスタジオで片付けをしていた時だったと
記憶している。
1991年の夏、この年から前日祭(今の前夜祭)が始まった。
この年の冬には、高知初子どもミュージカル劇団高知リトルプレイヤーズシアターも産声をあげる年でもある。
1991年は、ふりかてってみると、いろんな意味で始まりの年だったのか。
夏のよさこい本番が大盛況で終えた12日の朝刊に、セントラルチームの事を書いた記事がでた。
「初めて踊りに心動かされるチームをみたと高評だった。」
めちゃめちゃ、嬉しかった。
心の中で、やっぱり須賀先生は、すごい!と誇らしく思った。
今年の振りは、今までとは違う!と感じていたのは、振付の時からだった。
「ここで大きくお客さんをみながら歌います。」
???歌う???
新しい!と思った。
ミュージカル大好きな私は、思いっきり足を2番にひらいて、「高知の城下へ来て見いや」と叫び歌った。
音楽も当時のよさこいの楽曲の中では、際立っていたように記憶している。
グルーピング、のりがいい。
当時 M Cハマーとかが流行っていた。
踊りの世界にもストリート系が誕生し、ランニングマンなど新しいスタイルが登場していた。
早々とセントラル91には、ランニングマンも入ってるし、首をひねって踊るのも入って、
その当時にしては実に新しかった。
衣装は、着物で作ったいろんな柄の半纏に帯をしめた。反物は、B反と言われるものを京都で先生が選んできた。
B反といえど、本物の着物生地でつくるのだからなかなか高価なものになった。
1反で2着のハッピができた。
同じデザインで全員が違う柄。
「遠目でみたら紫陽花の花が咲いてるみたいで素敵」
と、当時のお客様のインビュー映像が記憶に残っている。
そんなチームなかった。
須賀先生のセンスとアイデアが光った。時代を動かした須賀先生の発想力がそれまで以上に大きく花開き始める、
そんなエネルギーを感じて鳥肌がたった。
それから少しして、セントラルのスタッフさんから、セントラルの演舞をみた北海道大学の学生さんが、
北海道でよさこいをやりたいと挨拶があったとの連絡がきた。
長谷川岳氏、当時北海道大学の2年生。さわやかで、並外れた行動力と、紳士なハート、人たらしな甘えん坊の所も
もちあわせた、若さ弾けるスーパーヒーローが土佐人の心をつかむのに、時間はかからなかった。