4月9日(土)おひねり

4月9日(土)

おはようございます。今日は、「おひねり」について書きます。

そういえば、最近「おひねり」って聞きませんよね。
小さい子には「おひねり」ってなに??って聞かれるかもしれません。

ちり紙(昔はティッシュとは言ってなかった(苦笑)紙は箱に入ったりしてなくて、
四角いハンカチくらいの大きさで束ねた形で売ってました。
それはまだ、世の中が和式トイレだった頃。ちり紙が主流でした。)

そのちり紙に5円やら10円を包んで紙をひねって、宴会や舞台で演者によかったよ〜と
お客様が飛ばしてくれます。
たくさん「おひねり」が飛ぶと、演者もノリに乗ってさらに素晴らしいパフォーマンスになり、
会場が盛り上がる。これは昔は普通の風習だったと記憶しています。
(違うかな?)

私がこの「おひねり」を初めて体験したのは、小学4年生くらいの時の日舞のおさらい会でした。
4歳から小学5年生まで、日舞を習っていました。
「あんたは、姿勢が悪いから日舞を習いなさい」そう母に言われて確か土曜日に習っていました。

親に言われて始めたことは、とにかく不真面目でした。
(今では、よく習わしてくれたと感謝しています。よさこいにおおいに役立っていますから)
私は、やんちゃで動き回る子供でしたから、先生もさぞ手を焼いたことでしょう。
とにかくサボりたかったので、お稽古に行って、自分の順番が来るまで、
お稽古場の隣にある広場で遊び倒して呆れた先生が何度か、
「もう今日は稽古なし」と見逃してくれました。
おおらかで厳しい先生でした。
スリッパも飛んできたし、お扇子でパシっと叩かれる事もしょっちゅうでした。
昔はどこでもそのように教えてくれていましたので、むしろ何もないとみすてられたような感覚になって、
かえって必死でお稽古したりしました。

発表会は「おさらい会」として年に1回は、いのの簡易保養センター?
(その頃はそう呼んでいましたが、そう簡保の宿です)
で、ありました。大きな座敷の広場に少し高さのある舞台がありました。

それまでは女舞(おんなまい)ばかりでしたが、小四の時、
先生が「千賀ちゃんは、元気がえいき男舞をやってみるかね」と言って下さり
「やっこさん」を教えてくれました。
その一言でやる気になった私は、初めて日舞楽しいと思いました。

そして、本番当日、思いもよらぬ「おひねり」が!!
白いちり紙がいくつか飛んできました。

「や〜〜〜〜〜、おひねりや〜〜〜〜〜、私にもきた〜〜〜」
心で叫びながら、緩む口元を必死にこらえ、顔色を変えないように気を付けて、
キメポーズに力がはいったことを今でもよく覚えています。

「おひねり」を飛ばしてくれたのは、私の知らない方でした。
でもきっと私が知らないだけで、母のつながりとか、一緒に習っている皆さんが
私に花を持たせてくれたのだと思います。

でも当時の私には、ものすごく嬉しかった。親でも親戚でもない、知らない大人の方から褒められる。
ものすごく気持ちよくて、やってよかったとか、他人に認めてもらう自己肯定感の心地よさを
初めて体験した瞬間です。

「おひねり」は係の方が集めて下さり。5円やら10円やらで100円くらいありました。
当時(バナナパンが30円でした)の小4にしたら、100円は大金です。
駄菓子屋に10円をもらっていってたから、10回もいけるわけです。
しかも今思えば、現金もらうってすごいですね。
「おひねり」は芸事でお金を稼ぐということを体感したんだなあと、
今にして思えば貴重な体験です。

ステージを降りて母のところに戻ろうとする私に、どこかのおばさんが
「あんたの踊りなかなかよかったぞね」と声をかけてくれました。
「おひねり」で最高の気分の上に、この一言は、俄然私のやる気を起こしたのです。
「みきちゃん(友達)みたいに、私は上手じゃないと思うちょったけど、私もいけるかもしれん」
そんな気持ちになって、それから日舞を前より真面目にやるようになりました。

誰かに認められる。これは本当に成長につながる。

今年のリトルもコロナを考えて迷ったあげくお客様の「お見送り」を遠慮させて頂きました。
しかし、次回こそ!!!「お見送り」をやります。
この時間が、一番のご褒美の時間ですものね。

も〜〜〜〜〜、ニックきコロナめ!!!!
私たちの一番大切なものをすべてもぎ取ってからに〜〜〜〜〜。

でも無くしてみて初めてどれだけ貴重なのかがわかりますね。
コロナで失った時間は、人にとって何が大切なのかを、もう一度考えさせられている
時間のように思います。

人と人の温もりを感じること。それを大切にできる、時間、もの、こと、を慈しんでいきたいと思います。

「おひねり」なんらかの形でやれるといいな。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

  合掌✴️千賀



4月8日(金)ランドセル

4月8日(金)

おはようございます。今日はランドセルについて書きます。
まさに「新学期」です。
昨日は各学校で入学式や始業式がありました。
FBにもピカピカの入学式の記事が並んでいます。

新学期といえば「ランドセル」
大きなランドセルを背負って一生懸命歩いて学校へ行く小学1年生。
本当にかわいい。夢や希望に溢れてランドセルが可愛く揺れています。

最近のランドセルは色とりどりになりましたね。
私たちが小さいときは「赤」と「黒」
それ以外…「エンジ」があったかな?それも学年に一人くらい。
エンジのランドセルを見たとき、私は、え?あんな色のランドセルってあるが?
しかもそんなの持っていいが?そう思ったことをよく覚えています。

いつ頃からランドセルの色が増えていったかは記憶にないですが、
それだけ人の価値観が進化してきているのですね。
「赤」と「黒」のランドセルが当たり前。みんながやってることが当たり前。
それが少しずつこれもありじゃない?それぞれ自分の好きな色を持っていいんじゃない?

ずっと昔の日本は、お見合い結婚が主流で、恋愛結婚は珍しい時代もありました。
でも今では、ほとんど恋愛結婚です。社会の価値観が個々の価値観を尊重して社会を形成するように
社会全体の意識が進化してきました。
今は、ジェンダーという言葉も登場し、その社会意識はますます進化していっていますね。

最近、その変化にちょっとついていけないなあと感じることもあります。
このまま個々を大切にしていって全体はどうなっていくんだろう。
と少し不安になります。
みんなで一つのことに集中していこうとする時、なかなか人が揃わない、集まらないという現象は、
村祭り、町内会、学校、サークル、習い事、いろんなシーンで、見られるようになりました。
何がなんでも集まらなくちゃという意識は、昔より薄くなってきました。

意識の変化、時代の変化なのでしょうか。諸行無常。全てのものは常なるかなですね。

私たちが若い頃は、みんなでやるときは、みんなで一つになる、そして心を合わせて高みへ登る。
その意識が強かったので、みんなでやることの感動も深く高みへ登っていった記憶があります。
若い感性の時代だったからそう感じたのかな?
今の子供たちも一致団結してはいますが、一致団結した時間も、充実度も私が経験してきたものよりは
薄く、浅くなってきているように感じます。

これは、私が年をとってきたからそう思うのでしょうか?
皆さんはどう感じますか?

今の子供たちは、充分に体験していて、私たちの感じ方と違うだけなのかもしれません。
ここです。私たちは経験しているからそれがいいと思って一生懸命伝えようとしていますが、
子供たちは今の社会で充分やっているのかもしれません。

でも、私は心の充実度という観点からいうと早く生まれてよかったなと
感じることがあります。
今の時代を生きる子供たちのことを思うと、私が感じられた素晴らしい感動を
伝えたいと思うのですか、それは私のお節介でしょうか。

みんなで集まることが難しい社会になっているのに、そんなことは必要ないのかもしれません。
おじいちゃん、おばあちゃんが口うるさく言ってくれた言葉。
今頃になってどれだけ大切かわかります。

しかし、今口うるさいおじいちゃん、おばあちゃん、大人もどんどん減ってる。
それは、子供たち、若い世代にとって良いことでしょうか。

日本は、昔、家族があり、近所があり、地域があり、学校があり、社会があり。
大きい社会へ行く手前に、小さなコミュニティが、あっちこっちにありました。
そこで、親以外の大人に育ててもらった。
親のおこごとは聞けんかったけど、隣のおじちゃんのは、きいた。
そんな記憶がたくさんあります。

今の子供たちの小さなコミュニティは?
学校?学童?習い事?

携帯ができ、小さな子供もスマホを見て時間を過ごす今、
人と関わる時間が急激に減っていますね。
人と関わり合うのはめんどくさいこともありますが、
関わることでしか手に入らない幸せもあります。

ランドセルの話から話が広がりましたが、ランドセルは「赤」と「黒」
から「カラフルランドセル」の時代へ。
お互いを認め合う、個々を大切にする、そしてその先にある
私たちが住みやすい社会を今の価値観でどうやって作っていくのか?
いやいや、今も住みやすい社会だけど、私自身がそう感じられないのか?

いろん時代をいつの間にか生きてきて、振り返った時、60を迎える今、
どう伝えていけばよかは私にとって本当に大きな課題です。
 
皆さんは、どう思いますか???(微笑み)








4月7日(木) 表現について

おはようございます。

今日は「表現」について書きます。

「表現」は「表」に「現す」と書きます。
と言うことは内にあることを外に出すということですね。
では、まずは内にないとどうにもなりません。
生まれてから、五感と言うアンテナを使って、いろんな事をキャッチします(感受性)
その感覚を現す「言葉」「表情」「ニュアンス」を体験を通して自然と学んで人は成長していきます。
と言うことは、気持ち悪いよ〜と泣いて、もう勘弁してよとおしめを変えるのか、
はたまた、あらあら、生きてるね〜、かわいいね〜、よしよし、などと声をかけながら「愛」を持って
おしめを変えるのか、大きく違ってきますね。
(いいとか悪いとか評価をしているのではないので、年ため注釈しておきます。
 もう勘弁して〜と変えることだってあると思います。そして、子供はまた学ぶのです。
 こういうこともあるんだなって。お母さんどうしたのかな?って。
 大人だって人間です。子供にひたすら会わせて自分を押し殺すのではなく、
 イライラする時もあれば、優しくできることもある。
 それを通して子供は「人」を学んでいるのだと思うのです。
 大切なことは、子供と出会えた感謝を忘れないでいられたらそれでいいと私は考えています。
 子供はみんな、親を選んで生まれ、親を喜ばせたいと一生懸命思っているのです。
 生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、心があり、ただそれを伝えるすべがない。
 本当になんでも直にわかるお母さんのお腹から当然外へ出て、体は思うように動かないし、
 目は見えない。どれはど〜すればいいんだ〜〜。ってなってるんじゃないかな。
 って私は思っております。(笑))

親との関わりの中からたくさんの表現の種を内側に体験値として蓄積していくのです。
それらの種を組み合わせてどう踊るか、どう話すか、どう書くか、どうか奏るか、これが「感性」です。

感性は、人それぞれの彩(いろ)を持ち、その彩が舞台の上で、存在して美しい絵もようになったり、
綺麗な新しいいろになったりするのが、ステージだと考えています。

それを見に来た、たくさんの彩のお客さまが拍手や反応を消してくれます。
それにまた反応すると会場の彩は素晴らしいものになっていきます。
たくさんの感覚が動いて「感動」。この「感動」体験が心を育てるのだと思います。

よいお手本のような応対が必要なのではなく、時には残念な応対でもそこから学ぶ。
両方が必要です。苦がなければ、感動も愛も深まらないと思います。
むしろ、辛い思いや嫌なことは、自分の進化に一番大切なきっかけとなる。
どうしてそうなったの?
原因があって結果がある。因果応報。なら自分か嫌だなと感じるような態度を取られるときは、
自分の何かが原因なんだと思います。
その何かは、なかなかわからないですけど。
でも探せば必ず見つかります。

そう「表現」とは生きることそのものだと思います。
そして、いい悪いと評価することよりも、まずはやってみる。
それをそのまま受け入れる。良くないとかはそん次のこと。
表現の質を上げるためには、その先がまたありますが、それはまたの機会として。
とにかく「表現」することに、「不安や、ちゃんとできんといかん」とか「できんかったらどうしよう」
子供に、そう思わせない大人であるよう努力したいと思います。

私も、そんな大人になれるように、目下修行中です。
引き続き、よろしくお願いします。

今日も最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

                                           合掌✴️千賀



4月6日(水)人生を変えた出会い〜須賀先生〜

4月6日(水) 今日は。須賀先生との出会いについて書きます。

人生を大きく変えた出会いの一つは、24歳の時に出会った須賀先生との出会いです。

きっと須賀先生に出会って人生が大きく変わった方は、ものすごくたくさんいると思いますが、
私もその一人です。

私が、24歳の時、高知市制100周年記念市民ミュージカルRYOMAでの事です。
私は団員、先生は振り付けの先生としての出会いです。

須賀先生は、私と10歳違いですので、当時34歳。場所は、城西中学校の体育館です。
ファ〜と広がるパーマのロングヘアに黒いレオタードから筋肉のラインが綺麗に見えて、
きゅっとしまった腰からスラッとのびた真っ直ぐな足。スタイルも抜群ですが、
放つ輝きというか存在のオーラがすごかった記憶があります。
須賀先生のとこだけ、ひだまりがあるみたいな感じ。

階段からこけた?のか理由ははっきり忘れましたが、手にギブスをつけ、三角巾で吊るしていました。
しかし、怪我は全く気にならず、あ、これかすり傷よねと言わんばかりの満面の笑み。
本当にパワフルな方だなあ。そこにいるみんなを虜にする魅力あふれる方でした。

いつ会ってもニコニコしてて、そばにいるだけで太陽にあたたっているような感じ、
しかし時折みせる激しさは情熱の現れ?とにかく熱い。
でもあの頃、須賀先生だけでなく、団員もスタッフも、あの時代はみんな熱いのが普通でした。
その中でも際立っていたわけだから、相当の存在感だったことは、須賀先生を知らない方も
少しは想像できるでしょうか。

ミュージカルのためと、スガにもレッスンい通うようになりました。
森本かおり先生、刈谷公治くん(リトルに出演してくれたり、いつもリトルを助けてくれます)
も市民ミュージカルで出会いました。

ミュージカルRYOMA終演後、「スガに来んかね」と誘われました。
芸事を仕事にすることは、田村家ではあり得ないことと教育されていましたが、
そのストッパーになっていた父も他界してしまい、自分の人生をどう生きるか
模索していた当時の私は、これは、タイミングだ、運命だ(運命は人が運んでくる私の命という言葉をちょうど見て)
人生は一度きりだから一度は自分の思い通りやってみよう、いかんかったらまた修正したらえい。
小さい頃からのこの気持ちを持ちながら他の人生を生きてもきっと後悔する。
いろんな理屈や、自分の都合のいい言葉が溢れてきました。

やめといた方がいいのじゃない?不安定な生活になる。
母だけが、そう心配しました。でも母は私を止められないとわかっていたので何も今言えなかった。
母は晩年30年間「なんちゃ〜わからんなった」と言い続けましたが、このあたりが母の「わからんなった」
の始まりだったような気がします。

そうです。母は、きっと自分の気持ちを抑えて、黙って許してくれました。

そして、エアロビクス、ジャズダンスのインストラクターをはじめ、安芸、吾川、佐川、などなど
市内より地域を担当し毎週、西へ東へと車を走らせていました。
そしてよさこいの振り付け、指導、須賀連を作り、よさこい派遣事業の窓口を担当し、日本中、
世界にまでよさこいを踊りに行きました。たくさんの出会いがありました。
よさこいを踊って世界を知る。こんなことができるとは、最初全く想像だにしなかった。
先生と一緒にマウイ島に心のワークショップに行ったことも今の私とってに大きな礎です。
たった5年間ぐらいしか在関していませんでしたが、
それこそ30年分、いやもっとたくさんの経験をさせていただきました。本当に濃密な5年です。

それらのことは、もうここに書ききれません。
また別の機会に少しずつ書きますね。

このようにきっと須賀先生に会っていなかったら、今の私はありません。
何より大きいのは、「人」としての出会いです。

須賀先生は、
「覚悟を決めなさい。大切なのは覚悟よ」
「覚悟すれば道は開ける」
「愛」を唱えました。
先生の唱える「愛」はどんどん進化し地球を包んでしまうほどの「愛」へと進化していきました。
それを伝え、現実に下ろす手段は「踊り」です。

須賀先生が40歳の頃、私は仕事で馬路村簗瀬にジャズダンスを教えにいきました、
そして、先生と泊まった「満木荘」先生の隣で眠りました。
朝起きたら、須賀先生が「夕べ白いひげのおじいさんが現れて、世の中の無気力、無感動、無責任を正せというて
消えた」と言いました。私は、また変なこと言いゆういくらいにか受け取ってなかったのですが、
この夜から、須賀先生の人生は、びっくりするような展開となっていくのです。
壮大な映画のような須賀先生の人生をみんなで、何かに残したいと今も思うばかりです。
このことも、なた別の機会に。

「世の中の無気力、無感動 無責任を正せ」よさこい祭の発展に尽力し、
きっと須賀先生がいなかったら、今のよさこいの姿はないと思います。
1代で、よさこい鳴子踊りに心の軸をしっかり立てた功績はすごいことだと思います。
(いつかまた書かせてください。本当に書くことがいっぱいだ。(笑)

そんな須賀先生が、リトルにも「愛」を注いでくれました。
私が32歳の秋、須賀先生から電話がかかってきました。
「千賀はもう価値観が変わったから、スガを出なさい。私はリトルを出るからリトルをやりなさい」
当時の私は、大好きな須賀先生が、社会からのバッシングももろともせず進んでいく狭間で、
自分を見失い始めていたので、先生の言うことも理解できましたが、
須賀先生のところを去りたくない気持ちもあり、素直には受け取れませんでした。

しかし、今は、このことが須賀先生の「愛」だと実感しています。
父、母、須賀先生、恩師から頂いた「愛」をリトルに来てくれたみなさんに一生懸命返していけたと思います。

「人生を大きく変える出会い」みなさんにもきっとあると思います。
人と出会うことは心の財産ですね。

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

                                         合掌✴️千賀






4月5日(火)人は死んだらどこへいくの?

おはようございます。 今日はちょっと深い話題。
「人は死んだらどこへいくの?」

(苦手な方をする〜して下祭ね)

この問いは誰もが一生のうちに一度は、考えるのではないでしょうか。

時折、小さな子供にそう聞かれたら、皆さんはなんと答えるでしょう。
私は「お星様になって、空から私たちを見守ってくれてるよ」と答えています。

私が、一番この問いに答えを求めたのは、父との死別です。
前のブログにも書きましたが、24歳の時、父を見送りました。

心筋梗塞で、突然の他界。生前、「早く結婚しなさい。お前は早くしないと結婚しなくなるから」
と私を見抜いていた父は、お見合い用の履歴書と写真をいろんなところに配りまくっておりました。
父の死後、返却されたその量を見てかなり恥ずかしく、また父の愛と焦りと感じ、
父は死を予感していたのかなと思いました。

そのころの私は、好きな人がおりましたので、当然父と大げんかです。
「もう、ほっちょいて!!」この言葉が父との最後の会話でした。

なんということでしょう。1週間も口を聞いてなかった。
本当に後悔しました。皆さん、大切な人との喧嘩はどうか早めに仲直りしてくださいね。

そして、私は父に謝りたい一心で、死後の世界に関する本を、ひたすら読みあさりりました。
毎晩寝る前に、布団にはいって死後の世界の本を読む20代後半。客観的に絵だけ想像すると
かなりやばい…感じですね。(苦笑)

イギリスの幽霊研究の本、仏教の本、キリスト教の本、幽体離脱の本、精神世界や宗教、哲学などなど
いろんなジャンルを読んでみました。
そして、セミナー、リーディング、ワークショップなど手当たり次第受けてみました。

そして、浮かんできたのはどの本にも共通していたこと。

人の死は、肉体を失うだけて、心(魂)は死なないで生き続ける。
死ぬとガイド(道案内)してくれる光(先に死んだ先祖や導きの案内を仕事としている魂)が現れ、
必要な所に案内してくれる。
まずは、自分の生きた人生をふりかえるコーナー。
 そこで、自分の人生を生きてきた中で、誰かを喜ばせたり、傷つけたり、幸せにしたり、
 がっかりさせたりそんな心の歴史を振り返る。
そして、そこでこれから住むのにぴったりな行き先をが決まる。
(人には波動があり、その波動は魂(心)の波動。)
その住む世界は、波動が同じ人たちがいる村みたいなところ。
ほとんど価値観が一緒で喧嘩することがなく、とても素敵なパラダイスみたいなところだと。
そこでも魂(心)の成長のためにお勉強をする。そこには、指導霊として役割を持った高次元の魂(霊)がいて
ちゃんと導いてくれる。
大まかにまとめるとそんな感じです。

(くれぐれもと書いておきますが、全て本や、youtube、セミナーやワークショップなどからの情報を
 取りまとめたものです。本当にこればかりは本当だと証明できないし、信じられなくて全然OKです。
 ふ〜〜ん程度に、またフィクションとして読んで頂けたらと思います。
 そして皆様個々のお考えを尊重いたします)

話しを戻して、死後の世界を生きた後、また時期が来たら、新しい人生を生きるために生まれるのだそうです。

転生輪廻ですね。最近は、テレビドラマなどでも転生輪廻をテーマにしたものが出て来たりしているのを見ると、
だいぶ、転生輪廻は普通に信じられる方が増えてきたのかなぁと感じます。

この世を生きるのは、あの世と違って、いろんな波動の人(いろんな価値観の人)と一緒なので、ものすごく揉める。
まさに心の修行です。
そうストレスのほとんどは人間関係ですもんね。
だからこそ、生きている間の魂(心)の成長はとても早い。
あの世もこの世も、魂の成長を目的として存在しているのなら、この世で人間として生きることの方が、
あの世で同じ波動の人たちとの生活より、はるかに成長が早いそうです。
うまくいかない人間関係にこそ魂を成長させる学びがある。
なのでみんなこの世に生まれたい。

(生まれる前の記憶をもっている人も多くいるとの研究もありますが、これについてはまた別ブログで)

今の人生の目標が魂(心)の成長で、その進化によって、あの世の住む村が決まり、そしてまた生まれる。
それを繰り返すのなら、今をちゃんと生きないとなぁ〜〜。
と思うようになりました。

ちゃんと生きられてるかは、全くわかりません(笑)
とにかく誰かを笑顔にしたり、喜んでもらえることに集中するのが良いのかなあと考えています。

そして、死後の父に、会えたかというと、はい、会えません。
この世的には会えませんが、目を閉じて父をイメージすると会えます。
会話は、心の中で聞くと。フワッと心にあふれてきて、それを自分でしゃべって会話します。
迷った時、困った時、嬉しい時、やっぱり心で父や母と会話します。

死ぬと体を失くすので「思い」だけになるからイメージすればそこにいるそうです。(これはセミナーからの情報)
時には、本当の声が聞きたくはなるのですが、それなないものねだりですね。
しょうがない、受け止めて初めて見える世界だから、「受けとめる」を学ぶしかないと思っています。

よく「お天道様は見てるよ」とおばあちゃんに言われました。
小さい私「お天道様って?太陽??」
おばあちゃん「そうそう、太陽さんはいつも空からあんたをみゆうぞね」
小さい私「じゃあ、夜やったら、大丈夫や」
おばあちゃん「夜は太陽の代わりにお月様が見てくれゆうわね。太陽さんもおやすみせないかんろう。」
小さい私「そうか、わかりました。」(ぐ〜〜の音も出ません。笑)

おばあちゃんは、幼い私にとって一番苦手で怖い存在でしたが一番お年玉をいっぱいくれたし、
お正月はおばあちゃんのお寿司で迎えていました。

死んだらどこへいくの?
おばあちゃん、おじいちゃん、父、母、パートナー、須賀先生、立脇先生、岡林さん、…。
旅立たれたたくさんの方々、これからも心が道を外さぬようお見守りください。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

合掌✴️千賀